きくさんの神社めぐり

手始めに倉敷の神社から始めて、いずれは全国展開

No18;諏訪神社(高松栗林公園前田)

参拝:2020年2月27日(木曜日)

栗林公園で開催中のチームラボ、光の祭を観に行く途中に立ち寄る。

小さな狛犬が微笑ましい。

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東経134度5分58.34秒、北緯34度18分30.95秒に鎮座。

この神社は、高松の南東郊外、久米池の南西にある古墳の上に鎮座しております。讃岐では珍しい諏訪神社ですが、武田の遺児「桃千代丸」が此の地に逃れ、諏訪明神を勧請したと云う。信玄亡き後、甲斐武田氏を継いだ勝頼は天目山の戦いで破れ、一門はかの地で滅んだと云われているが・・・・・。

祭神:建御名方神
 時天正十年三月十一日武田信玄の長男勝頼とその嗣子信勝は天目山の戦いに織田信長に敗れ親子共々に自害す。武田氏は滅亡に及び信勝の弟桃千代丸は家臣十八人女中七人を伴ひ屋島の地に逃れ来たり。山田郡元山村領主大熊備前守方に暫止留なし再起を謀るべく此の地に諏訪明神を勧請、後香東郡坂田室山城主細川家々臣坂田権守に頼り住みしも時悪く天正十三年三月豊臣秀吉の四國征伐に遭遇し室山城落城桃千代丸逃れ此の地に来り掃部屋敷(神社東側下の東寄り最近迄柿の大木と井戸が残在していたが今は埋没して跡なし)に住み祠職をなすも延宝年中発覚されその職を遂放され長い年月そのままとなり荒廃極に達す。山崎の住民恐れ畏み修復し山崎の守護神として現在も祭祀せるは誠に敬神の念厚き心に感銘するものである。御神徳の一説に地蔵寺の住職屋島西町に移遷せんと諏訪明神に我に百人分の力を授け給へと日参せし所その力量を授けられ喜び勇み帰寺せんと新川の堤防にさしかかった時両足地中に没し歩行出来ず直ちに力量減じ給へと念じたる所忽ち五十人力減ずるが故に寺院の建立に役だたせよと神託あり住職直ちに棟木を組立て落成新田町奥の坊より本尊の移遷せしとある。
明治五年七月久米八幡宮境外末社となる。
境内由緒書より。

No17;伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)

参拝:2020年1月5日 16時

青春18きっぷ一人旅、紀伊半島一周田旅の締めくくりで詣でた。伊勢神宮は記憶を辿ると2度目。ほぼ40年ぶり。

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神路山かみじやま、島路山しまじやまの麓、五十鈴川のほとりに鎮座する皇大神宮は、皇室の御祖神であり日本人の大御祖神である天照大御神をお祀りしています。
今から2000年前、皇位のしるしとして受け継がれる三種の神器の一つである八咫鏡やたのかがみをご神体として伊勢の地にお祀りし、国家の守護神として崇める伊勢信仰は平安末期より全国に広がりがみられました。現在でも全国の神社の本宗として特別に崇敬を集めます。

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わが国最初の正史『日本書紀にほんしょき』によると、天照大御神はお生まれになった時、「光華明彩ひかりうるわしくして、六合くにの内に照り徹とおる」と称えられ、この上なく輝かしい存在として、また神々の世界を治める日の神としても伝えられています。
高天原たかまのはらにいらっしゃる大御神は皇孫瓊瓊杵尊ににぎのみことをこの国にお降しになる際に、

豊葦原とよあしはらの千五百秋ちいほあきの瑞穂国みずほのくには、是これ吾あが子孫うみのこの王きみたるべき地くになり。宜しく爾いまし皇孫すめみま、就ゆきて治しらせ。さきくませ。
宝祚あまつひつぎの隆さかえまさむこと、まさに天壌あまつちと窮きわまりなかるべし。

と、この国は天地と共に永遠であるとの祝福のお言葉をお与えになりました。また、この言葉と共に大御神は宝鏡を授けられ、「この鏡は私を見るがごとくにまつれ」と命じられました。さらに高天原でお育てになった稲穂を授けられ、米をつくる暮らしが、この国の繁栄と平和をもたらすとお教えになられました。この御祝福の言葉は「天壌無窮てんじょうむきゅうの神勅しんちょく」と呼ばれます。

さて、瓊瓊杵尊に授けられた宝鏡は八咫鏡やたのかがみと呼ばれ、天皇天照大御神をお祀りするご神体となっています。八咫鏡は代々宮中で天皇ご自身がお祀りされていましたが、崇神すじん天皇の御代になるとお側でお祀りすることに恐れを抱かれ、皇居を出られ、大和の笠縫邑かさぬいのむらに神籬ひもろぎを立ててお祀りすることになりました。


そこでは、天皇にお代わりして、豊鍬入姫命とよすきいりびめのみことが皇大御神をお祀りしていましたが、垂仁すいにん天皇の御代に、倭姫命やまとひめのみことが新たに皇大御神をお祀り申し上げるにふさわしい地を求められることになりました。倭姫命は大和の国を始め伊賀、近江、美濃の諸国を巡られた後、伊勢の国の度会わたらいの地、宇治の五十鈴の川上に到られ、皇大御神のお教えのままに「祠やしろ」をたててお祀り申し上げることになりました。今からおよそ2000年前のことです。祠は社やしろとも書き、家やや屋やの代しろという意味で、大きなお祀りに際してその度新たにたてられる建物のことです。神籬や祠のように臨時にたてられる建物が、神の宮、つまり神宮と呼ばれるほどに大きな規模になったのは、天武天皇から持統天皇の御代にかけてのことと考えられています。20年に一度の大祭、神宮式年遷宮もその時代に始まりました。

No16;熊野三所大神社(和歌山県那智勝浦)

参拝日:2020年1月5日 9時

青春18切符ブラリ旅三日目。

補陀落渡海で有名な補陀落山寺参拝の渡海に立ち寄る。この神社は那智補陀落山寺の隣にある。

鳥居横の樹齢800年の楠木の大きさには驚く。

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那智の浜の近く、那智駅から徒歩5分ほどのところにあるこの神社は、熊野三所権現を祀ることから、熊野三所大神社と呼ばれます。元「浜の宮王子」であったため、浜の宮大神社(はまのみやおおみわやしろ)とも呼ばれます。

 

 熊野詣が盛んだったころには、浜の宮王子とも渚宮王子、錦浦王子とも呼ばれ、熊野九十九王子のひとつで、中辺路・大辺路伊勢路の分岐点となっていました。那智山参拝前にはこの王子で潮垢離を行って、身を清めたといわれています。

 

 浜の宮王子前にあった森は「渚の森」と呼ばれ、和歌にも詠まれた名勝の森であったということです。現在はもう森はありませんが、大きく立派な数本の楠がかつてそこに森があったことを教えてくれます。

 むらしぐれ いくしほ染めて わたつみの 渚の森の 色にいずらむ

(『続古今和歌集』 衣笠内大臣

 

 

御祭神について
 祭神は、家津美御子大神・夫須美大神・速玉大神の熊野三所権現
 摂社として、丹敷戸畔命(にしきとべのみこと。地主の神)・三狐神(食物の神)・若宮跡(浜の宮王子跡)があります。

 丹敷戸畔命とは、『日本書紀』における神武天皇の東征の折の記述に登場する人物で、

 天皇はひとり、皇子の手研耳命(たぎしみみのみこと)と軍を率いて進み、熊野荒坂津(またの名を丹敷浦)に至られた。そこで丹敷戸畔という者を誅された。そのとき神が毒気を吐いて人々を萎えさせた。このため皇軍はまた振るわなかった。

 と、登場してすぐに神武に殺されてしまう土豪の女酋長です(丹敷戸畔の「戸畔」は、女酋長のことを意味します)。詳しいことはまったくわかりません。謎の人物です。
 ちなみに、那智駅に隣接してある温泉の名は「丹敷の湯」といいます。そこで潮垢離ならぬ湯垢離をしてから那智山に向かわれてもいいかも。またはお詣り後にでも。


 また、三狐神もまた、食物の神とされていますが、謎の神様。奈良県十津川村の玉置神社にもこの神様が祀られています(全国熊野神社参詣記の熊野三所大神社の頁もご覧くださいませ。てつ自らの投稿です)。

補陀落渡海の出発点
 那智の主神・牟須美神(ふすみのかみ)の本地仏は千手観音であり、那智は観音浄土「補陀落(ふだらく)浄土」とみなされ、那智の浜に面していた補陀洛山寺が拠点となって、補陀落渡海という一種の入水往生がしばしば実践されました。

 その補陀洛山寺が熊野三所大神社のすぐ隣にあります。
 神社のすぐ隣にお寺があるなんて、と不思議に思われる方もおられると思いますが、かつて熊野ではこれが普通でした。熊野は神仏習合の聖地。熊野信仰は、神道や仏教や修験道が混然一体となり、形作られていたのでした。
 明治の神仏分離廃仏毀釈により、熊野でも多くの寺院が排され、神道化していきましたが、ここではその神仏習合の名残を見ることができます。

 

No15;春日大社(奈良)

参拝:2020年1月4日 11時

安綱作、国宝「童子切り」を観る為に春日大社にやってきた。

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奈良時代の初め、平城京鎮護のために茨城県鹿島神宮武甕槌命御蓋山の山頂に祀ったのが起こりとされています。神護景雲2年(768)称徳天皇の勅命により、現在の場所に社殿を造営し千葉県香取神宮から経津主命大阪府枚岡神社から天児屋根命比売神をあわせて祀りました。平安時代になると皇族や貴族の春日詣もさかんとなり、20年ごとの式年造替の確立に伴い、本殿以下各社殿は現在のような規模になりました。また中世以降になると武家や庶民にも信仰がひろまり、全国各地に3000社を超える分社がつくられるまでになりました。“万燈籠”で知られるさまざまな形の釣燈籠、石燈籠の多くは庶民の寄進によるものだということからも、庶民信仰の深さを伺い知ることができます。毎年2月節分の日と8月14・15日にすべての燈籠に火を入れる“万燈籠”の行事が行なわれ、その幻想的な美しさに、多くの参拝客が訪れます。

No14;出雲大社(島根県松江市)

参拝:2020年1月1日(水)15:00

恒例の嫁さんとの元旦一日バス旅。

玉造温泉皆美で食事と温泉後に参拝。

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神々の国と呼ばれる出雲の地に、その象徴のように建つ出雲大社。八雲山を背にした境内には森厳な空気が漂い、数千年の歴史を持つ神殿が厳かに建っています。空を突き刺すような本殿屋根の千木を仰ぎ見ると、壮大な神代の世界も想像に難くありません。神々が集い、古代より人々から仰ぎ尊ばれてきた出雲大社。その由来や歴史、参拝ルートなどを詳しくご紹介いたします。

 
出雲大社の由来
縁結びの神・福の神として名高い「出雲大社(正式な読みはいづもおおやしろ)」は、日本最古の歴史書といわれる『古事記』にその創建が記されているほどの古社で、明治時代初期まで杵築大社(きづきたいしゃ)と呼ばれていました。
主祭神はだいこく様として馴染みの深い「大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)」で、『古事記』に記される国譲り神話には、大国主大神高天原天照大神(あまてらすおおみかみ)に国を譲り、その時に造営された壮大な宮殿(※)が出雲大社の始まりといわれています。
※『日本書紀』では天日隅宮(あめのひすみのみや)と表記

 
出雲大社の歴史
現在の本殿(国宝)は延享元年(1744)造営されたもので高さは約24mですが、出雲大社の社伝によれば、太古の時代、出雲大社本殿の高さは現在の4倍、約96mあったということです。
本殿の後ろにある八雲山が約100mですから、山の頂上付近に千木(本殿屋根の先端にある交差した二本の木)が見えていたと想像すると、現代でも圧倒される高さです。
また平安時代の頃には約48mあったと伝えられ、平安時代中期の貴族の子弟の教科書『口遊(くちずさみ)』には、雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)という言葉が記されており、これは当時の建物の高さベスト3を表現していると言われています。
「雲太」とは出雲大社本殿、「和二」は東大寺大仏殿、「京三」は京都御所大極殿を示し、当時本殿が日本一の高さを誇っていた事が分かります。
この説は明治時代から様々な研究がなされ、当時の技術ではその高さの木材建築は不可能ではないかとも言われてきました。しかし2000年に本殿の南側で鎌倉初期の造営と推定される三本一組の巨大な柱根が発掘され、巨大な神殿の存在を裏付ける発見となりました。

 
大国主大神オオクニヌシノオオカミ)について
出雲大社主祭神である大国主大神は、多くの兄弟の末っ子として出雲に生まれました。大きな袋と打出の小槌を持って米俵の上に立つ「だいこく様」の姿でもお馴染みです。
神話では「因幡の素兎」が有名で、サメに全身の皮を剥かれた白ウサギが、大国主大神の兄達から“海水に浸かり風に当たれば治る”と教えられ、そのとおりにしたところ傷は酷く悪化してしまった。ウサギが痛みで泣いているところを遅れてやってきた大国主大神がやって来て、“真水で塩を洗って蒲(ガマ)の穂に包まれると良い”と教えたところ、ウサギの傷が癒えたというお話で、大国主大神の優しい性格がうかがえる一幕です。
大国主大神は出雲王朝を繁栄させるという偉業を成し、多くの女神と結婚してたくさんの子供をもうけました。大国主大神が縁結びの神様と言われる由縁でもあります。

No13;天神宮(児島味野)

参拝:2019年12月31日 10:30

少し高いジーンズを買おうと、児島ジーンズストリートに行ったが、さすがに大晦日は全店閉店だった。

この天神宮はジーンズストリートにある。

ここの狛犬は表情がユニークだ。

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 当社の創建は応永14年(1407)といわれる。岩崎(巌崎)五郎左衛門なる者が阿波国三好郡より菅原道真公の神霊を奉戴し舟で尾首坂(字疫神上)というところに着いた。(舟が着いたところをこののち天神川というようになった)そこに神霊をお祀りしたが、その後文明4年(1472)に現在の鎮座地である柘榴浜(ざくろはま・磯辺)に移したという。
 本殿、一間社流れ造り。拝殿、明治15年(1882)再建唐破風付き入母屋造り。

No12;御崎神社(総社市山手)

参拝日;2019年12月21日(土曜日)

昔の山仲間と福山の帰りに立ち寄った。

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素盞鳴命・大国主命・少名彦名命の三方が神として祀られています。現在の社殿は元禄8年(1695年)に再建されたもので、社殿の正面に長い廊下、境内の周りには堀が巡るなど、地方の神社では立派なたたずまいを見せています。

 

ここが窪屋郡(くぼやぐん)の郡家(こおりや)の跡

 大化の改新(西暦645年)に吉備の国窪屋郡の郡屋(郡役所)のあった所である。 周囲に廻らしたいかめしい当時の様子が今も残っている。道をへだてたすぐ東は 地つづきに津坂駅(つざかえき)の跡があり南の松並木の道は馬場といって東は 京から西の九州大宰府に至る当時日本で唯一の大路中国街道である。 又ここを岡本里(こほり)ともいった時代があり郡屋があったので岡本里と云っていた という説もある。

 

 黒日売(くろひめ)は窪屋郡司の娘

 仁徳天皇の代(約千数百年前)皇室から各国司にみえよき娘を召された時宮中の御用に 上った吉備国からは窪屋郡司の娘が上がった。皇室では黒日売の名を呼ばれて奉仕した。 帰国の後に天皇が姫の後を慕うて山方(山手)の郡屋へ行幸されて福山の春風野に 若菜を共に楽しく摘ませられてお歌を賜った。 天皇の御還幸になる時姫から切々たる別れを惜んで歌をたてまつった。

 以上境内掲示板より