きくさんの神社めぐり

手始めに倉敷の神社から始めて、いずれは全国展開

No17;伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)

参拝:2020年1月5日 16時

青春18きっぷ一人旅、紀伊半島一周田旅の締めくくりで詣でた。伊勢神宮は記憶を辿ると2度目。ほぼ40年ぶり。

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神路山かみじやま、島路山しまじやまの麓、五十鈴川のほとりに鎮座する皇大神宮は、皇室の御祖神であり日本人の大御祖神である天照大御神をお祀りしています。
今から2000年前、皇位のしるしとして受け継がれる三種の神器の一つである八咫鏡やたのかがみをご神体として伊勢の地にお祀りし、国家の守護神として崇める伊勢信仰は平安末期より全国に広がりがみられました。現在でも全国の神社の本宗として特別に崇敬を集めます。

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わが国最初の正史『日本書紀にほんしょき』によると、天照大御神はお生まれになった時、「光華明彩ひかりうるわしくして、六合くにの内に照り徹とおる」と称えられ、この上なく輝かしい存在として、また神々の世界を治める日の神としても伝えられています。
高天原たかまのはらにいらっしゃる大御神は皇孫瓊瓊杵尊ににぎのみことをこの国にお降しになる際に、

豊葦原とよあしはらの千五百秋ちいほあきの瑞穂国みずほのくには、是これ吾あが子孫うみのこの王きみたるべき地くになり。宜しく爾いまし皇孫すめみま、就ゆきて治しらせ。さきくませ。
宝祚あまつひつぎの隆さかえまさむこと、まさに天壌あまつちと窮きわまりなかるべし。

と、この国は天地と共に永遠であるとの祝福のお言葉をお与えになりました。また、この言葉と共に大御神は宝鏡を授けられ、「この鏡は私を見るがごとくにまつれ」と命じられました。さらに高天原でお育てになった稲穂を授けられ、米をつくる暮らしが、この国の繁栄と平和をもたらすとお教えになられました。この御祝福の言葉は「天壌無窮てんじょうむきゅうの神勅しんちょく」と呼ばれます。

さて、瓊瓊杵尊に授けられた宝鏡は八咫鏡やたのかがみと呼ばれ、天皇天照大御神をお祀りするご神体となっています。八咫鏡は代々宮中で天皇ご自身がお祀りされていましたが、崇神すじん天皇の御代になるとお側でお祀りすることに恐れを抱かれ、皇居を出られ、大和の笠縫邑かさぬいのむらに神籬ひもろぎを立ててお祀りすることになりました。


そこでは、天皇にお代わりして、豊鍬入姫命とよすきいりびめのみことが皇大御神をお祀りしていましたが、垂仁すいにん天皇の御代に、倭姫命やまとひめのみことが新たに皇大御神をお祀り申し上げるにふさわしい地を求められることになりました。倭姫命は大和の国を始め伊賀、近江、美濃の諸国を巡られた後、伊勢の国の度会わたらいの地、宇治の五十鈴の川上に到られ、皇大御神のお教えのままに「祠やしろ」をたててお祀り申し上げることになりました。今からおよそ2000年前のことです。祠は社やしろとも書き、家やや屋やの代しろという意味で、大きなお祀りに際してその度新たにたてられる建物のことです。神籬や祠のように臨時にたてられる建物が、神の宮、つまり神宮と呼ばれるほどに大きな規模になったのは、天武天皇から持統天皇の御代にかけてのことと考えられています。20年に一度の大祭、神宮式年遷宮もその時代に始まりました。